睡蓮が咲いた。
園芸店で買ったのは4年前だったか5年前だったか
もうずいぶんになるが、花をつけたことは一度もなかった。
以前、自宅で何鉢も栽培しているという人から聞いたところによれば
睡蓮はなかなか気難しく
底の泥の具合によって咲いたり咲かなかったりで
何年も咲かずにいることも珍しくはないという。
そんな愛好者でさえ手を焼くことがあるというのに
鉢に放り込んだままでは咲かないのもなるほど。
花のこともすっかり忘れ
今年も次々水面に現れる葉を横目で見ていたある日
メダカにエサをやろうと屈み込んだところ
いつの間に生えたのか鉢の底に蕾が見えた。
それから数日伸び続け
水面から顔を出したのが一昨日。
閉じたガクの隙間に見える色から白蓮を想像していたのだが
開いた花弁が鮮やかなピンクだったことに意表を突かれる。
たまたま咲いただけなのに言うのもなんだが
睡蓮は大好きな花のひとつだ。
その昔、ライギョを求め
夏になると週末のたび遠征を繰り返していた時期があった。
まだインターネットも普及しておらず、ほとんど情報もない中
2万5千分の1の地形図を片手に
池や沼をひとつひとつ探し釣り歩くことは
苦労も多かったが未開のジャングルを探検するような期待と発見があり
たとえ釣果が得られずとも、それはそれで楽しいものだった。
フロッグを使ったカバーゲームを主としていたため
竿を出すのはもっぱら水面が水草で覆われた池ばかり。
道に迷いつつやっと探し当てた池が
鏡のようなオープンウォーターだったりするとがっかりしたものだ。
カバーは大半がヒシで次いでハス、加えるならホテイ草であり
それ以外の水草が茂る池はまれであった。
ある日の早朝、行き着いた山麓の小さな池は
その半分以上が睡蓮で覆われていた。
まだ夜が明けきらない黒々とした水面のところどころに
ぽっと火が灯ったように花が咲く光景は幻想的であり
ルアーを投げ込むことがためらわれるほど美しい眺めだった。
その花々の間へこちらから、あちらからとフロッグを通していたとき
突如、花がグラッと揺れ動き、直後に飛沫が上がった。
ラインが張りつめると同時に泥水が飛び散り
直線上にあった葉が次々にめくれ上がった。
手にした魚を再び水に戻した後
立ち上がってみると何枚もの葉がちぎれ
折れ落ちた花弁が点々と浮いていた。
そのライギョの大きさは忘れてしまったが
罰当たりなことをしたような
少し後ろめたい気分になったことが
今も記憶に残っている。
睡蓮といえばもうひとつ、瞼に浮かぶ光景がある。
これも、もう昔のこと。
紫陽花を見に行きたいとせがまれ
シーズンたけなわの紫陽花園へ行ったことがある。
一緒に行った彼女には申し訳ないのだが
その時に見た紫陽花も、その前後のイベントも
彼女が着ていた服も、ほとんど思い出せない。
はっきり覚えているのは遊歩道の脇に沼があり
そこに睡蓮が咲いていたことだけだ。
点々と咲く睡蓮を眺めながら
その時すでに遠い過去となっていた
ライギョを釣ったあの池に思いを馳せていた。
以後、どこかで睡蓮の花を見るたび
この二つの情景が相次ぎ甦る。
とはいえ、何度も思い出すうち、記憶はすり減って曖昧になり
瞼に浮かぶその眺めも、実際とは違ってきている気がする。
そして、思い出そうとすればするほど逸脱し
バックラッシュがほどけずラインを切ったこと
ヘビを踏みそうになったこと
うどんに虫が入っていたこと
岸際のヨシの間にエロ本が落ちていたこと
コイ釣りかと尋ねられた爺さんの顔
農家の屋根の朽ちた温水器
フロッグについた歯型、泥まみれのジーンズ、生臭い指…などなど
いつのことだったかもしれない記憶の扉が次々に開く。
手を叩いて笑った。
その笑顔と白い歯。
髪を束ね、抜けた一本を捨てる。その仕草。
箸を持つ手つき。あくびをしたときの鼻の皺。
頬づえをつく横顔。
驚いた顔。怒った顔。
泣き顔、泣き顔、また泣き顔。
睡蓮の花は日が暮れると閉じ
そして、夜が明けるとまた開く。
これを昼夜運動といい、睡眠運動ともいう。
目を閉じて眠る、その安らかな寝顔に
睡蓮も夢を見るのだろうかと思う。